此の夢を見た時分には、私すでに相当な年寄になっていた。子供の頃には此のような夢を見たことが無かった。
夢の中で私は小さな部屋――睡眠室であった――に居た。気がついて見ると、部屋の中に一人の美しい女が寝てゐる。女の額は広く、顔は白く、細い眉が赤い唇の上にかゝつてゐた。私はその女の唇を見ると、どうしてかしら取り付けずには居られなくなり、知らず知らず近寄って、一つ、軽く、唇の端に触れた。
その瞬間、その女は目を開けて私の方を見た。美しい黒い目が私を見ているのである。私ははっとしてうしろへ退いた。しかし女は立ち上って私の方へ近寄る。私の胸は鼓のように速く打った。女は私の唇に軽くキスをすると、また眠ってしまつた。
私は恐ろしくなった。気味が悪くて見る間もなかった。もう一度女の顔を見ようとして足を踏み出した時、女は静かに起きあがって私の前に進み出、中へ入れろといふのである。私はあやうく窓の外へ逃げようとしたが、窓は無く、女は立ち上がると、私を強く抱いて私の唇に三度目のキスをした。
その瞬間に私は目がさめた。枕元に何の変哲も無い夜の明かりが灯をひろげてゐたが、私はまだ女の唇の感触を手のひらに残してゐるやうで、眠ることが出来ぬまま朝を迎へた。