三四郎

夏目漱石

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一、 私は久しぶりに汽車の中で独りで座った。朝のまだすこし薄い光が窓に入って、座席の縁に丸く影を作った。車内はすいていて、見知らぬ人々の顔が静かに並んでいた。私は手に持った帽子のつばをじっと見つめながら、自分の心がどこへ行くのかを考えていた。

二、 清水寺の下にある町を出てから、随分長い間、私は都会へ行くという夢を持っていた。出発の朝になっても、その夢はまだ現実になったとは思えなかった。ただ胸の内に、何か新しいものが待っているという予感が渦巻いていた。私はその予感を確かめるために、窓の外の風景を追った。

三、 畑と田んぼが次第に少なくなり、家の屋根が寄り合うようにして増えてきた。小さな橋を渡ると、そこからはもう山も見えなくなり、煙突が二つ三つと立っているだけだった。列車は速く走ったが、私の心は遅々として進まなかった。何故だか都会の音がまだ耳に届かないように思えた。

四、 駅に着いたとき、私は少し恥ずかしい気持で立ち上がった。汽車のドアが開くと、冷たい空気が流れ込んで、私の頬を刺した。人々は互いに軽い会釈をして通りすぎた。私は荷物を抱えてホームへ出ると、ふと自分の影が長く伸びて地面に落ちているのを見た。

五、 外へ出ると、町は既に忙しそうだった。馬車が軋み、車夫の声があちこちで聞えた。私は人混みの中を歩きながら、自分の顔が少し青白く見えるのを感じた。友達はまだ待っているはずだが、どんな顔をして会うだろうかと考えると、自然に額のあたりが熱くなった。

六、 約束の宿は町の奥まった通りにあり、古い門が風に揺れていた。玄関で名を告げると、女中はにこやかに案内してくれた。部屋に入ると、押入れや床の間があって、田舎者の私にとっては案外落ち着く所であった。窓から外を見下ろすと、通りには人の行き交う影が見えた。

七、 夕方になって、友達の一人が来た。彼は既に東京での生活に慣れているらしく、歩き方も言葉も都会人のそれであった。私たちは軽く挨拶を交わし、茶を飲みながら互いの顔をじっと見つめた。言葉は少なかったが、不思議な連帯感が二人の間に生れた。

八、 夜になって、町の灯が一つ一つともると、私の胸はますます騒いだ。窓の外には、通りを歩く人々の影が交差して、まるで一つの幕が揺れているようであった。私はその幕の裏側に自分の未来が隠れているのを夢見ながら、布団の上に横になった。眠りに落ちる前に、私はもう一度都会の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。