私の妻は女学校を出てから三年間家庭教師をしていた。ある日私は彼女の家へ行って、そこで初めてその事を知った。私は妻の経歴などは何も知らなかった。結婚してからも彼女がなつかしむように昔の話をするのを聞いたことがない。彼女は黙って私の方を見ているだけであった。
彼女の家は城下の方にあった。私はその頃東京の北の方に下宿していたから、そこへ通うには随分時間がかかった。ある日私はどうしてもその用があるから行かねばならぬと考えて、昼飯のあと出かけた。道がよく分らなかったので、途中で人に道を問うた。訊かれた人は親切に教えてくれた。
その家に着くと、妻は玄関先に立っていた。私は土足のままで上がりこんだ。彼女は何か慌てた様子で、私を奥の座敷に案内した。座敷には薄暗い光と古い家具があるだけで、二人は向かい合って座った。しばらく無言の時間が流れた。
彼女はやがて口を開いた。それは淡々とした調子で、過去のことを話し始めた。家庭教師をしていた頃のこと、教え子の家族のこと、自分が経験した些細な出来事などであった。聞きながら私は彼女の顔を見ていた。そこには穏やかな表情とともに、どこか影のあるものが感じられた。
私は彼女の話を聞き終ると、ふと自分の胸中に別の感情が生まれているのを覚えた。婚姻生活の中で幾度か感じたことのある、説明のつかぬ寂しさであった。それは彼女自身の秘密めいた過去から来るものなのか、あるいは私の内面に根ざしているものなのか、私ははっきりしなかった。
その日から私は彼女のことを以前よりもよく観察するようになった。日常の些細な行為、言葉の端々、顔の表情の変化など、どれも私にとって新鮮で、また理解しがたいものに見えた。私の内面には次第に問いが蓄積していった。
時は流れて、やがて私たちの生活は静かな日常へ戻った。しかし私はときどき、その日のことを思い出しては、どうしても忘れられぬ想いに囚われた。結婚とは何か、人と人との間に横たわる見えぬ溝とは何か、私は独り考えを巡らした。