こころ(第一部 先生と私)

夏目漱石

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私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

私がまだ学生であった頃、東京の下宿屋に居候をしていた。下宿は古い家で、軒下にいつも土埃が溜まっていた。

ある日の暮方、私はふと海辺まで散歩に出た。波は静かで、海風が頬に冷たく当たった。

その時私は一人の年のころ四十ばかりの男に出会った。男は海を眺めながら煙草を吸っていた。

彼は私をじっと見て、やがてこちらに近づいて来て話しかけた。話し方は丁寧で、どこか物寂しげな趣があった。

それからというもの私は先生の家を訪ねるようになった。先生は静かな生活を送り、客が来るとしばらく黙っていることが多かった。

私は先生の性格に徐々に惹かれていった。彼の話す言葉には経験に根ざした重さがあり、また時々見せる笑顔には少年のような無邪気さがあった。

ある日私は先生に自分の将来のことを相談した。先生はよく聞いてくれて、最後にこう言った。「世の中には人に言えないことが多いのだよ」と。