吾輩は猫である

夏目 漱石

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吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかも後で聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に撫でられて気持が良かった事だけは覚えている。

掌の中で眠っていると時々彼は当り前のように鼻を鳴らした。時々彼は吾輩の耳をよくみて、何かを考えるような顔をした。彼はいつも勉強らしい事をしていた。何でも漢語や英語やっているらしかった。時々鉛筆の先で吾輩の尻を突いたりした。

吾輩はその時彼の家の中を見廻した。家の中には書物が沢山あった。彼は書生であったから当然筆記用具や教科書や雑誌が積んであった。机の傍には大きな椅子が一つ置いてあった。そこへ彼はよく坐って蒼白な顔をして本を読むのであった。

吾輩は彼の家に居るうちに段々世間の事を悟るようになった。食事をする事、寝る事、微妙な気配りをする事、互に挨拶を交す事等々、そういう事は吾輩にとって新奇な遊戯のようであった。彼らは吾輩を可愛がっていたが、その可愛がり方にはしばしば不思議な点があった。

例えば彼らが来客を迎える時の騒ぎは吾輩にとって理解し難いものであった。彼らは舌を鳴らし、衣服を繕い、時には大いに議論した。吾輩はただ床の隅で尻尾を巻いて眺めていた。人間は自分たちの世界で忙しくしているが、その中に吾輩のような小さい生き物の心配など入らないらしいことを徐々に察した。