菅俣屋内。夜半の鐘の音も浅く、漁火かすかに見ゆる頃、戸を叩きて入る者あり。すみずみと土間に立ち並ぶ道具の上より、古い屏風を押し開きて、侍姿の男、杖をつき、息せききして中に入り、たちまちに座敷の端に屈み伏す。
隣の間より老女出で来たりて、戸口に立ちて呼びかけ、何事ぞと問う。侍、名を告げて、かねてのことあれば拙者この屋にて一夜の宿を所望すと申す。老女、顔色を変じて、無体なる遅き時分にて、女中も寝入り候うと、こまかに咎める。侍、異国の渡りを経てこの辺に来たりしにて、急にはぐれ、疲労の至るを以て、せめて一寝申さんと願うと懇願す。
老女、いかにともかく人の情けにて、一隅の床を取って召し入れんと、急ぎ女中を起こして、灯りをとり籠を整え、椀飯を差し出す。侍は膝を屈めてこれを受け、酒を一献して喉を湿らし、息を整うるやうに見ゆ。しばしば顔に影を落とし、遠きことを思い出し、またうたた寝する。
やがて侍、立ち上がり、壁に掛けられた小屏風を取って眼を注ぎ、古い家譜のごときものを取り出して、指で追いながら低く付して語る。かの地にての主従の契り、主君の恵みと恩義、その最期の有様を述べて、胸に熱きものを満たす。老女はこれを聞きて愁色を深め、何事ぞと問い返すも、侍はただ落涙して言葉を絶つ。
門前に騒ぎ立つ声、遠近行き交う人影にて、夜の静けさ破られ、侍は再び身を翻して戸口へ向かう。老女、如何するかと止めしも、侍は妻子の名を呼び、かねて果たさねばならぬ儀ありと告げ、仮の宿に礼を述べて去らんとする。女中、涙を拭いながら、ささやかなる包みを差し出して、道中の食を含め、命の行く末を案じて哀願する。
侍、これを受け取りて深く一礼し、決然として刀を帯び直し、暗き夜路へ踏み出す。老女、戸口にて見送りつつ、背に手をやりて四方を仰ぎ見、一人残されて呆然と立ち尽くす。遠ざかる足音、やがて消え失せ、ただ夜の風のみが戸を鳴らす。