(序幕) そら恐ろしくも、世の中に於ては、誰がためにかほめし事も、あだし事もおこりはべる。人の心のすべては、うつろい、うつろいて、いかでか常住の事あらんや。しかるに、義士の志、忠義の心は、堅固にして、波風にもいやまされず。いまここに云々と申すに、かようの始末を生ずるは、昔よりの因縁なりとて、いかがはせん。
いで、さても扉口にて候うは、内府の御使いより、御文の達し候。御家の事、いかなる次第にても、早々に申し入れ候へと。これを聞こしめし、主人の御意を承り候はば、いよいよ道筋つけあけ候て、事を取はからうべしとて、家中しきりに相談に及び候しが、各々かの者の胸は、これまでの事に思ひかへし、言葉もなし。」
さては、御家の打坐(うちざ)ありしのち、あまたの側近ども、奥御前へ参りて、いろいろと仕ふるに、そこはかとなき御有様にて候。御内儀(おんないぎ)に至りても、涙おさへがたく、侍女どもは皆うち嘆き、うち成兼ねて、物音もなく候ふ。さればとて、無理にも心慰め候ように、語りて慰むる者あり。かくて、御家に残れる者ども、義をば守るべくとて、面々に誓ひ合せ候ふに、いよいよ志堅く、ことの及ぶまゝに行ふべしと、約束の端を定め候。」
かの赤穂の城中にも、老少男女、各々感涙にむせぶ。城の鳶(とび)口、門番に至るまで、義を覚え、ただその事の成り行きを案じ候ふ。あまつさへは、近郷の武士、里正の家人、職人商人までも、その事を聞きては、酒を献じ、弔ひの詞を述べけり。しかれども、人の世の常也、語らひのうちに、よしあしありとて、忍ぶべき者と、さして咎むべき者と、いろいろに分れ候。
この間にも、御家の事を受けて、敵討ちの志を抱きし有志共、ひそかに寄合ひて、相談をはじめ候。もの言いの端々には、主君の遺臣としての恥を洗ひ直す事を第一に、曲事あらば、仇をあばき、けりを付けんとの意気や不退の様子あり。されども、時節と力の有り様をよく図りて策を練るべしとて、軽々に事を起さじとの由も、口々に言ひ交らされ候ふ。
さて、ここに一人の老武者、名をはばかりて申しもらさず候へども、昔日よりの友を偲び、また義の道を重んずるによりて、若き者どもを励まし、又計略を案じ候ふ。その声は重く、説き伏せるところもあれば、また激しく奮はせるところもありて、諸人心を一つにすること、いよいよのばかりに見え候。
やがて、志を定めし者共、早くも己が身を顧みず、少人数にて事をなすべしとして、ひそかに動き出し候。城外の人々、日ごろの動静に気付かず、ただ雪の景色、月の影を眺めて、物の淋しさを語り合ふのみ。然るに、ひそかの者どもは、夜陰に乗じて稽古を重ね、兵具を整へ、ことの行はん時を待つべく仕込みをし候ふ。